荒川流域を知る~埼玉のルーツ~③
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第3回 6月7日「江戸市中を襲った洪水」
*江戸は毎年のように洪水に襲われた。その中で記録に残り、特徴ある水害を挙げる。
① 宝永元年(1704) 初めて記録された利根川の氾濫
利根川が6月~7月の大雨で上川俣(羽生市)と権現堂(幸手市)付近で決壊。8月再度、猿ヶ俣(現水元公園)が決壊。利根川の氾濫が江戸へ押し寄せる経路を示した最初の記録。
➁ 享保13年(1728) 「内水氾濫」
神田川、隅田川の大洪水で江戸市中の低地はことごとく浸水し、高台では多数の崖崩れ。特に神田上水・江戸川筋(神田川中流部)の小日向・小石川一帯の水深は3m前後。急な地水の出水と排水不良による「内水氾濫」の例。
③ 寛保2年(1742) 江戸時代最大の洪水
暴風雨が関東一円に大被害をもたらした。川口から岩淵方面も一面海になり、飛鳥山からは川口の善光寺の屋根のみ見えたと記録。
④ 天明6年(1786) 荒川の洪水が「日本堤」を超えた
利根川の洪水が猿ヶ俣の堤防を決壊し、江戸市中に侵入。荒川も江戸時代を通じて唯一「日本堤」を超えて、荒川末流の現隅田川に流れ込んだ。天明3年の浅間山噴火で各河川の河床が高くなったことが大きな要因とされる。
⑤ 弘化三年(1846) 利根川の洪水が荒川末流(現隅田川)に合流
連日の大雨で利根川が本川俣で大きく決壊。中川も破堤して古隅田川(現亀有―小菅間の区境)から小菅で荒川末流(現隅田川)に合流。
*江戸を守った二つの堤「日本堤」「中条堤」と遊水地
江戸時代の治水は、川に洪水が集中しないよう中流部の川幅を広げられれば川幅を広くし、できない場合は堤のあちこちを開けておいて、そこから洪水を逃がし、その一帯に遊水させる方法が採られた。
代表例の「日本堤」は、蔵が建ち並ぶ荒川末流の現隅田川を荒川洪水から守るため、隅田堤(自然堤防/現墨田区役所)の対岸に元和6年(1620)、下流に向って「ハ」の字に築いた堤。そこから上流熊谷まで荒川そのものが遊水地になった。今、「川幅日本一」と呼ばれる荒川「御成橋」辺りは荒川河口の約4倍もあり、遊水地としての機能を今に残している。
利根川中流部では、利根川に合流する福川の右岸側に合流地点から南西に約4㎞続く「中条堤」が築かれていた。この中条提は利根川左岸側の「文禄堤」と「ハ」の字に配置され、利根川洪水を旧妻沼町側に氾濫・湛水させ、忍領から埼玉東部、江戸を利根川洪水から守った。
【言葉を知る】
*「堤内」と「堤外」
昔は人の暮らしの場を堤で囲って洪水から守った(輪中)。人の暮らしのある場が「堤内」。川の水が流れる場が「堤外」。
*「外水氾濫」と「内水氾濫」
山から流れてくる川が大雨で洪水を起こして氾濫するのが、「外水氾濫」。
土地に降る雨の排水が間に合わず、市街地に湛水するのが、「内水氾濫」。
江戸時代の水害は多くが外水氾濫だった。明治以降はアスファルトで覆われた都市が増え、併せて下水道整備も進めてきたが、排水能力を超える大雨になると内水氾濫を起こす。最近は異常気象でゲリラ豪雨や線状降水帯発生で内水氾濫が増えている。
江戸を守るため遊水池機能を果たしてきた埼玉。東京と埼玉の立ち位置は今も同じ構図で、埼玉県民の多くは都内に通い、ベッドタウンとして東京を支えている。埼玉と東京の関係を様々な角度から考えていく。










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