荒川流域を知る〜埼玉のルーツ②
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【荒川流域を知る〜埼玉のルーツ②】
第2回 5月3日 「そして、東京は水路・水辺・水の流れを失った」明治以降
*江戸城下の上水道
神田上水=井の頭池からの神田川を関口(椿山荘下)で堰上げ→神田川北側を通して旧小石川大沼(東京ドーム)→水道橋を掛け樋で渡し、城下北半に配水。
玉川上水=多摩川の水を武蔵野台地の尾根伝いを東流させ、一部は野火止用水、神田上水、三田用水等に分水し、青山水口(四谷大木戸、四谷四丁目)から城下南半に配水。
*江戸の物流路
後背地からの産品(下らない物)は綾瀬川(水源=葛西用水と見沼代用水)と新河岸川(荒川下流部)の舟運路から。全国の産品(下り物)は上方から江戸湊に運ばれ隅田川に集積。
隅田川と江戸城下は「の」の字の濠で結ばれ、江戸時代の水路網が暮らしを支え、江戸は百万都市に。
<明治以降>
*江戸時代の河岸場(秋葉原など)が初期鉄道の貨物駅に。1872年初の陸蒸気が新橋~横浜間を走る。
*楓川開運橋のたもとには渋沢栄一がつくった第一国立銀行(現みずほ銀行兜町支店)があった。一方、岩崎弥太郎は丸の内に三菱のオフィス街(一丁倫敦)と東京駅をつくり、東京は「水の都」から「陸の都」へと変わっていく。
*1923年関東大震災で被害の大きかった本所・深川の水田は埋め立てられ、日中戦争を機に隅田川両岸(足立・葛飾・江戸川)は工場地帯に。
*重化学工業は日本の近代化を支えたが公害も引き起こす。大気汚染や隅田川から東京湾等への水質汚染、地盤沈下が顕在化した。
*戦後復興は、焦土処理に旧江戸城の外堀から江戸湊の運河まで水路を利用したので猛スピードで進み、一気に高度経済成長期を迎える。
*羽田からオリンピック会場の代々木を結ぶため、楓川等の水路上に首都高速道路を整備し、日本橋の上にも首都高が覆った。
*武蔵野台地の都市化により、台地上でも洪水が発生するようになる。内水氾濫の増加。
東京は震災、空襲からの復興で水の流れを手放した。埼玉県は現在、全国でも2位の川の面積を誇る。利根川と江戸を結んだ大幹線用水路「葛西用水」「見沼代用水」も残されている。次代の埼玉を再考していく。
資料はNPO法人「水のフォルム 荒川流域を知るI」より








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